撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし⑤
 ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一

 

・マスコットと開化亭
 亡くなった小説家の大佛次郎は、開化の横浜を舞台にした小説をいくつか書いていますが、昭和のはじめにニューグランドホテルを住居のようにして、執筆していました。
 日本大通の現在日銀の横浜支店になっているあたりに「マスコット」(注釈あり)という店があり、私も時々行ったことがありますが、彼をちょくちょく見かけました。大抵北村小松と一緒に飲みに来ていたようです。この「マスコット」を舞台にした小説に「愉快な仲間」というのがありますが、その本の扉に載っている絵は、この店の壁にかかっていた絵です。店主はもと、フランス領事館で通訳をしていた人で小さな店でしたが、当時の文士達に愛されていたようです。
 開化亭は、戦災で消えるまで不老町にあった明治以来の古い西洋料理屋でした。市役所の先の橋を渡った向こう、角に郵便局があり、その隣にありました。
 むかしから“いんごう屋”で通っている、一風変った気骨ある親爺さんの店でしたよ。店は普通のしもた屋で看板も何もなく、入口の大きな一枚ガラスに。開化亭と書いてあるだけなのです。入るとすぐ土間で一段高くなった処に二帖分位の畳が敷いてあって、ここで洋食を食べさせた。客は勿論座って待っているわけで、「遅いぞ。」なんて注文の催促でもしようものなら、親父が怒るので、みんな静かに皿が出てくるのを待っていました。それで通称「いんごう屋」だったわけですが、美味い料理を食べさせるので、客は絶えなかったわけです。
 相生町一丁目の梅香亭、あれも古くからある洋食屋ですね。

・寄席のはなし
 横浜は、むかしから寄席の多い街でした。明治時代から、色々と変遷があったようですが、私の記憶では、埋地を中心として十一軒の寄席があり、それぞれに客を呼んでいました。
 むかしの落語家は、東京から毎日通うわけにいかないので、十五日間泊りきりで高座に出たりしていましたね。今の伊勢佐木町四丁目にあった「寿」は浪花節専門で、関東では浪花節を演る者は。ここへ出なければ一人前になれなかったものです。同じく三丁目にあった「新寿」は見番の二階にあり、ここには“野ざらし”の柳好が専属で来ていました。
 その時分の寄席は、貸席で興行していましたからどこでも百五十席程の小さな小屋で、他(ほか)に藝事のおさらい会などにも使われていたようです。
 戦前に盲目の浪曲師として有名だった綾太郎も横浜で、はじめは“あんま”として客の肩を揉みながら一席やっていたのですよ。
 こんな風に往時の横浜には藝人を育てる土壌があったのですが、もうみんな遠い話になってしまいましたね。

(注釈)本の見返し絵が載っているのは北村小松著「呼声」(岡倉書房1937年)で、大佛次郎の「明るい仲間」(杉山書店1942年)の表紙には横山隆一が描いた「マスコット」の店内と思われる壁にも絵が描きこまれている。(大佛次郎記念館の益川良子さんにご協力をいただきました)

 

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