撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし④
   ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一

 

●趣味のことなど
・本牧チャブ屋街
 横浜開港以来のチャブ屋の発生と変遷については多分別項に書かれていると思います。私もその語源は簡易食堂からきていると思いますし、むかしは昼飯時(ひるめしどき)になると「さあチャブにしよう」などと云ったものです。
 若い頃(昭和初期)ダンスも音楽も好きだった私は、ダンス・ホールにもチャブ屋にもよく通ったものでした。
 戦後はもうすべて接収地となって、一部はもう道筋さえ全く消えてしまいましたが、本牧、小港周辺の小路の両側に二十数軒の店が散在していました。和洋折衷のモルタル又は木造のペンキ塗り二階建の店が多く、入口にはネオンが輝き、店の名も“ニューヨーク”“バイオレット”などといかにも港街らしい風情のものがありました。年輩の方の中にはご記憶の方もあると思いますよ。
 私は金もないのに、店の前へタクシーで乗りつけ、入口にいる婆さんに「頼むよ」と云うと、車代の三十銭を払ってくれるのです。常連だった故(せい)でしょうか。数日後に寿司でも持って借りを返しに行きました。
 規模の大小はありましたが、店には必ずダンス・ホールがあって、客はまず女達と踊ってから目当ての女を指名するというわけなのです。チャブ屋は女郎屋と違います。ここの女達は前借のある者と、ない者と半々位で、みんな部屋代と会費を払って商売をしていました。ですから、何時、何処へ出掛るのも全く自由で、客に誘われて映画を観てお茶を飲んでから、夕方店へ帰ったりしていました。和服も着ていましたが、客とダンスをするので洋服の女も多く、当時流行のモダンという言葉がピッタリの娘達も多勢いました。
 港が隆盛し、外人客も多く、横浜が最も横浜らしい情緒にあふれていた時代に、チャブ屋街は他の何処にもない、特色ある街だったように思います。
 “チャぶる”から生れた“チャブ台”(食事の膳)という庶民の言葉も今ではもう殆ど使われていませんね。

・戦前のダンス・ホール
 そもそも私が音楽を好きになったのは、ダンス(社交(ソウシャル)ダンス)を踊るようになってからなのです。ダンスに音楽はつきものですからね。もう昭和二年から踊っていました。その頃はまだダンス・ホールなんてありませんから前述したように踊れる所と言ったらチャブ屋だけでした。
 横浜に初めてダンス・ホールが出来たのは、花月園ダンス・ホールですが(大正九年)、これは遊園地の一隅にほんの小さな小屋が出来ているという程度のものでした。
 初めてホールらしい処が出来たのは昭和三年の五月でした。山下町の谷戸坂近く(山下町82番地 現日石ガソリンスタンドの並び)で本町通りに面した角に、ユニオン・ダンス・ホールという名でオープンしました。無論社交ダンス場で客は会社員が多かったようです。教師もいて、竹内と云う人が上手(うま)いと評判でこの人のステップは今でも教本になって残っていますよ。アメリカへ行って習ってきたんでしょうね。ユニオンの附近、前田橋に近い所に、同じ年に横浜ダンス研究所というのが出来て、それが横浜ダンス・ホールからパロス、次にはフロリダ(山下町98番)と名前を変えていったものです。フロリダになった頃(昭和八年頃)は有名で、当時の一流バンドや、外人のバンドも時には演奏していて、華やかなものでした。チケットは一枚十銭で、十枚綴一円とほとんどきまっていましたが、此処は一枚十二銭でした。その他私の記憶にあるのは、昭和四年できてきた次のような所です。


★ブルー・バード(後のオリエンタル 今のYMCAの先、住吉町一丁目一番)
★メトロポリタン・ダンス・ホール(弁天通一丁目の旧露路裏)
★カールトン・ダンス・ホール(真砂町二丁目の裏通りの角)
★太平洋(パシフィック)ダンス・ホール(中華街内 山下町157、現インターナショナル・エクスプレスビル)
★金港ダンス・ホール(伊勢佐木町通り喜楽せんべいビル四階)
★東横ダンス・ホール(東横線元住吉駅附近)


 その頃のダンス音楽は、ワルツ、タンゴ、フォックストロッ、ルンバでしたね。生(なま)演奏はダンス・ホール以外では、やっていけないという条例がありましたから、好きな音楽を聞きたくて、よく通いました。チケット一枚では一曲(三分)しか踊れないのですからラーメンが十銭で食べられた時代には、仲々金のかかる遊びでしたよ。チケットの裏にダンサーの顔写真が印刷されていたのを、戦前派の中には懐かしく思い出される方もあると思います。


吉田衛 横浜昔ばなし 前ページ 次ページ